当たり前の疑い方

はじめに

みなさんこんにちは。
闇から世界を観察している者です。

このブログをご覧のみなさんは、おいくつくらいの年齢でしょうか。

生まれた頃からインターネットがあり、SNSがあり、YouTubeがあり…という方には、
少しイメージしづらいことをお話するかもしれません。

テクノロジーの進化

近年、テクノロジーはとても進化し続けています。
「通信」で言うと、大昔は人が直接相手のところまで言葉を届けに走ったり、伝書鳩を使って離れた相手へ言葉を伝えたりしていたものです。
電気が発明されてからは、電話を通じてより遠くの人と話せるようになりました。
今ではインターネット経由で、いつでもどこでも音声やテキストだけでなく、映像も気軽に、そして当たり前にやりとりできるようになっています。

かつては手作業でおこなっていた仕事も、パソコンだけで完結できるようになりました。
とは言っても、最初の頃は今のような通信環境ではありませんでした。
重いデータ(今では軽い)はインターネットで送ることができず、MOやFD、CD-R等にデータを保存して、物理的に相手先に送り届けていました。
会社の先輩から「これ先方に届けてきて」なんて、おつかいを頼まれた記憶をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。

この数年では「AI」がどんどん優秀になり、質問のコツを掴めば、必要な情報を手軽に得たり、新しく何かを生成できるようにまで発展しています。

人間の進化

さぁ、ここでみなさんに質問です。

短い年月で、これだけのスピードでテクノロジーが発展し続けていますが、
みなさんの働く時間は、短くなっていますか?
いやいや、働いている時間は十数年前と全然変わらないよ。
むしろ長くなったと感じる方も、中にはいらっしゃるかもしれません。

あぁれれぇ?おかしいですね?
モノを作ることも、運ぶことも、人とのやりとりも、圧倒的に時間短縮できているはずなのですが…。

ここで私は疑問を感じました。
「テクノロジーは進化しているが、それを使う人間は進化しているのだろうか?」

今の日本を見てみて、どうでしょう。
世界を見てみて、どうでしょう。

何故人が人を苦しめているのですか?
環境を大切にと謳いながら、やっていることは何ですか?

私たちは、もっと穏やかに暮らすことができるのではないでしょうか。
テクノロジーの力を使って、豊かに、優しく、そして楽に生きる方法を探れるのではないでしょうか。

改めて質問します。
人間は、進化していますか?

テクノロジーのおかげで便利になった反面、退化していることもあるでしょう。
便利になったことは、とてもありがたく、日々感謝をしています。

ただ、それだけではない、心のあり様、信念はどうでしょう。

何をもって、人間の進化とするのか。

平和に人々や地球と共に生きる?
欲を剥き出しに周囲を蹴落として生きる?

個人的に、私は前者を進化と捉えたいです。

勿論、今の状況を「進化」という人もいらっしゃるかもしれません。
それが人間なのだ、と。

人によって、考え方の基準は違いますから。
ジャッジはしませんし、できません。

サービスづくりで大事なこと

少し話はそれますが、
「システム」を作る上で、そのシステムを「考える人」「作る人」「運用する人」の思想や技術がとても大切だと私は考えています。
この部分にどんな人がかかわるのか。
それがこのシステムを利用する人々に対して、大きな影響を与えます。

この大切な「根幹」に関わる場面において、
人々の生活を豊かにしたいと願っている人に、私は携わってほしいと考えますし、我々もその想いを常に意識しながら、サービスづくりをさせていただいております。

さらに話は少し平行移動しますが、
一週間をひとつの区切りととらえた上で、
我々は基本的に、5日間の労働を契約している場合が多いですね。
そのことに対して何も疑問を持たずに、日々過ごしているかもしれません。

なぜ疑問を持たないのでしょうか。
そこには、こんな秘密が隠れているのかもしれません。

岡田斗司夫さんの著書『ぼくたちの洗脳社会』に書かれている一文を引用させていただきます。

◆「国民教育」の正体

蒸気機関車から電気、電話と次々に発明され、人々の生活は大きく変わりました。
それまであらゆることが土地中心、農業中心に組まれていたのに、都市中心、工場中心の生活へと変化したのです。人々は畑を捨て、都市に出てきて工場で働くようになりました。
– 中略 –
工場中心という発想は、教育システムまで大きく変えてしまいました。
十九世紀のイギリスの社会学者、アンドリュー・ウールは次のように述べています。
「いったん成長期を過ぎてしまったら、農民の子でも職人の子でも、優秀な工場労働者に仕立てるのは不可能である。若者を、あらかじめ産業制度用に育てられれば、あとの仕込みの手間が大幅に省ける。すなわち公共教育こそ、産業社会には不可欠である」
これに関して、トフラーはこんな感じで分析しています。
「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書き算数と歴史を少しずつ教えた。だがこれは、いねば『表のカリキュラム』である。その裏には、はるかに大切な裏のカリキュラムが隠されている。その内容は三つ。今でも産業主導の国では守られている。時間を守ること、命令に従順なこと、反復作業を嫌がらないこと。この三つが、流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ」
今、私たちみんなが受けてきた義務教育には、実はこんな目的があったのです。
義務教育の目的として、最も大切なことは知識の修得ではなくて、集団生活を学ぶことだ、とはよく言われることです。
が、「集団生活を学ぶ」というのは、実は工場で機械的な集団作業をこなすための練習だったのです

http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51560970.html

私は実例を上げて言語化されたこのお話に触れ、ピッタリとパズルがはまるような感覚がありました。

みなさんの身の回りで、当たり前と思っていることは、本当に当たり前なのでしょうか。
誰かの戦略・誘導が、裏に隠れていませんか?

少しでも違和感を持ったなら、その感覚を大切に
自分で情報を調べ、そして考え、自分の意思で行動してください。

誰もあなたに対して責任を負うことはできませんから。

当たり前を疑え。
感じろ。
考えろ。
行動しろ。

みなさん一人一人が大切な存在です。
守れるのはあなた自身。
これからの時代、とても大切になりますよ。


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